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回顧85年(明治40年ー平成4年)1992年8月9日大安日曜 中井常蔵 本文は、中井常蔵先生が八十五歳の時に、自分史として書かれ、タイプ印刷された19ページの冊子を抜粋しました。 特に注目する箇所は、父親 兼松氏の薫陶により常にトップ(学年152人中、五年で一番)の成績を上げられていた事、中学卒業(銀時計)後、吉原小学校の教壇に立った後、和歌山県立師範を卒業(銀時計)、湯浅小学校、再び、和歌山師範専攻科を卒業、県立師範付属小学校訓導、南部小学校教諭の時「稲むらの火」が国語教科書に採用、南部小学校教頭、和歌山県庁教育主事、39才で切目小学校校長とエリート教育者としての道を歩まれた半生は、灘高等学校の初代校長 眞田範衛先生と同じ様な経歴であるのも、中井常蔵先生の教育者としての才能が卓越しており、戦争さえ無ければ優秀校を創設し天下の有名校を育てられたと、眞田範衛先生の遺稿集を刊行した者として、思う次第である。 第一章 蛍雪二十年 一)生誕地山田を偲ぶ (山田は湯浅町の一番東奥の三本松峯(五八三米)を頂点として東下に金屋町糸川に接し南に降りて昊巖寺山(四四〇米)、地蔵ケ峰(四二八米)などの山々が連なり山田川を広川の分水嶺と稜線に依って広川町に接し、北は熊井村、奥村(現吉備町)の山嶺で境する。更に三本松から西に連なる小山脈で北谷と南谷に分かれて西に流れて山田小学校の整地となる台地で終り、川も合流して落合橋に集まり山田川の本流として平野区を通って那耆湾に注ぐ。慶長検地高目録(五九六一、六一五〕に依れば村高六十一石余小物成一石三斗七升二合、湯浅組に属し、和歌山藩田辺領。続風土紀では家数一〇六、人数五〇六と記す。 山田が田辺藩安藤家の領土であった事はよく聞かされて居り、堂坂の上の小学校に通う様になって、校舎の北側に春秋閣といふ古い乍ら寺の様な立派な建物で、玄関には駕籠二-三台を並べられる広い板場があり玄関を昇ると畳の間三部屋と大きい床が在り、右側は料理と宿直室、床の問には安藤藩主の木調座像他鎧、槍、太刀等一杯に陳列され、見る者の眼をひきつけて権力の偉大さを偲ばされたものである。 二)三ツ橋家 本家は「元庄屋」の字名で知られる三ツ橋家、私の生家はこの頃の当主紋十郎の次男紋九郎が分家して現代四代となるが、当家二代の父は明治二年(一八六九)生れ昭和二十二年七十九才で永眠、母も父と同年生れで昭和三十二年八十九才で永眠、三男に生れた時(一九〇七)は祖父は既に亡く、祖母の手で三年計り養育されたが、両親も兄も家業一筋の生活だった為、祖母は毎日私を背負って呉たが、この祖母の小守唄「ネンネ根来へ行きたいけれど、河が恐いよ、紀の川が」を何時の間にか覚えて了って手を引かれては一人で歌ふものだから、祖母は何時も隣人に会ふと「この子には小守唄は要らないのよ」と笑って居た事丈は今も折々風呂の湯に温もり乍ら偲び唄として口吟み居ります。 父 兼松 明治二年六月四日 (一八六九)生 昭和二十二年十月二十四日(一九四七)七十九才 現代の広川町上津木に生れ明治十一年当家に入婚して二代を嗣ぐ。剛毅一徹、農地の拡張とみかん栽培に執念を傾むけ、従来の金柑や夏みかん畑を有田みかん一本に切替え雑木林も次々に開墾一日の遊びも許されず、川向ひの雑木山開墾には未だ小学生だった私も石垣用の切石を兄と二人で橿に積んで開墾地へ運ばされるのには閉口しましたが、時移った今、七拾年前に開かれた畑を眺める度に懐旧の涙に浸る思いです。 (五)山田小学校時代 山田小学校の創立は明治六年、北谷の現在法樹寺を教室として居たが、明治十二年新替校舎と新築し、明治二十四年再び転地して落合の現在地に移転、其の后校名も変え通学路の整備等を重ね、昭和四十七年創立百年の記念式典も盛大に挙行されたが、児童数は前記続風土紀に見える通り戸数一〇六、人口五〇六だったのか、どの様に増加したか、唯創立百年祭の記録に卒業生千人と知る丈であるが、私の記憶では校長先生一人、男の先生一人、女教師一人で校舎は壱棟二教室と職員室と裁縫室壱棟だけで二教室三学級とし、生徒数は八十人から九十三人といふ小規模であった事は今も記憶を残して居るが、一年生に入学の時若い青年教師で詰め襟の黒服で出勤された志波朋一先生には大変可愛がられ、卒業后も或る用事で五西月村を通った時村人に尋ねると、まだお元気とは聞きましたが、遂に再会の機に恵まれなかつた事は残念至極と反省いたし居ります。 八年の通学中、一番頭に残る記憶は大正三年(一九一四)一年生の時でした。教室の掃除は毎日欠かさず児童の作業として続ける事は常習ですが、或る日、或る朝、見た事もない窓ガラスの枠の外側に白い灰が細かいごみが一面に溜ってあるのを見て、皆んなで拭き落したのに、翌日も、又、その翌日も同じ様な状態が続けられた為先生も驚ろかれて、これは先日から九州桜島で起ってゐる大噴火の火山灰が三千米も上空に噴き上がり気流に乗って、こんな東の空まで流れて来るのだと云ふ事を詳しく説明して戴き、何の情報もない当時の地球異変の事も始めて知らされ、その后現代に到る迄、地震、火山、津波等、天災の多い我が国の変還を省り見ると共に防災対策の重要さを考えさせられる私共となり、更に中学三年(大正十二年)の九月の関東大震災は更に大規模で深刻であった事を知るにつけ安全な地球人となる為の研究、行動を一層重ねなければならない事を痛感させられる私でありました。 六)耐久中学校時代 大正九年(一九二〇) 四月入学、十四年三月卒。 農閑期の休日は長兄と二人で自家用山林の手入から町有林での薪木伐を重ね、乾燥整理した後は朝の登校時に荷車一車先引き、自分は后押で町の委頼先へ届ける。 こんな家業の一端を伝ふおかげで、午后の授業が終ると皆夫々楽しいスポーツに熱中するのが普通乍ら自分にはそんな余裕無く、走る様に帰つて各部屋のランプのホヤ掃除、注油、風呂焚きの担当を果たさなけれぱならない。前記卒業アルバムには私の顔の皆無なのはその証拠です。 夕食后は本宅に接する個室で自分丈けの時間として予習復習等を続けるが、夜遅くなると父の寝室から「まだ起きて居るのか、早く寝よ」と厳しい声を聞く事毎日、その后は父が叱る声の響く時間になると、衣桁を入口に移して布団か着物を衣桁に掛けてランプの光を覆ふ名案を思いつき、安心安全の時を楽しむ。 「成績下ったら裏の坂を上って来るなよ」これも毎学期の終りになると、命ぜられる御託宣、四年生の一学期の終りでした。 グント下がった通知簿を鞄に入れ、翌朝を待ってこっそりと大阪在住の従兄の家に往き家業の手伝いをさして貰い、もう退学をと決意して働らき続けましたが夏休みの終頃、思いもかけぬ父の名前で手紙が届き、担任の先生がお前の退学を誰から聞かれたのか、このほど来訪され「卒業する迄は止めさすんじゃないぞ」と厳しく諭されたの事、その后は之亦夜の勉強時間のランプ事件と同じく一切成績の事には触れなかったのも父の人格の特徴と思い着き、前記各頁に父の事を記し、父の性格を「剛毅一徹」と評価した自分を熟反省し剛毅とは凡て自己本位に行動し、一度自己主張を叫べば後へ引かぬ性格の表現と考へ通した自分の愚かさを反省し、父は何事にも反省深く、自己主張の厳し過ぎた過去の己に執着しない人格だった事に感謝と敬意を捧げる今日です。 耐久中学卒業(大正十四年三月三日)には、元紀伊藩主、徳川頼倫侯より学術品行最優等を以て銀時計壱個を贈られました。 第二章 教職二十年 蛍雪十余年の幕降りて新しいスタートラインに立ったものの進学を捨てた自分はどう歩んだらよいだろう? 自分は末っ子だから兄や従兄の住む大阪へ出ようと思ひ定め、同期の笠谷君、上山君等と大丸デパートヘ入社志願書を出した処、問もなく合格を認めたから面接に出頭する様にとの手紙到着、読んでみると日は忘れたが今日の午后一時となって居るが当時の郵便配達は二日に一度であり、汽車は箕島迄の運行だった為、とても面接には出席出来ないと断念す。 私の当が外れた事を知った兄嫁の里の兄はその頃吉原小学校校長を勤めて居ましたので「遊んで居ては勿体ないから私の所へ来てみよ」と奨められたものですから、そこに下宿して義兄の後に付いて吉原小学校の教壇に立つ事になりましたが、壱ケ月も経たぬ内に県師範二部生の再募集があったとか広報を観て、ここを受けよと願書を書いて呉れ私の印も捺して了いました。 日課を持たぬ人間、信念を持たぬ人間で在った自分の愚かさを今でも反省して居ます。勉強は本来厭いな私ですので、今までの勉強はノルマに応える為の努力だった訳ですが唯何事にも今に打込む気性だけは持って居ますが、夢と信念に打込む信念の不足が今の私にして了ったのだと悔み居ります。 大正十五年三月師範二部卒業。元藩主徳川頼貞侯から又賞状と銀時計壱個頂き。湯浅小学校に就任。 昭和二年三月、休職して専攻科に入学。三年三月卒業して湯浅に復職。同年四月短期現役兵として六十一連隊に入営、八月末日陸軍歩兵伍長に昇進し国民軍士官適任賞も頂いたので対戦中は何時赤紙が来るか、ヒヤ、ヒヤ、の日を送ったが結局無召集。 昭和五年八月県師範学校附属訓導に迎えられ有元校長、中野八十八主事の許、熊野郷氏や登尾覚一氏等と席を並べさして頂だく。 昭和五年十二月二十三日、南部町中井良子と結婚入籍、七月の見合の時は御坊迄汽車、あとは明光バス。結婚当日は印南まで汽車、あとはバス。昭和六年一月四日小松原通り一丁目一番地旧刑務所の背后の新築住宅に新世帯。 昭和七年二月十六日祖母急逝され親二人だけの世帯となったので何とか戻って呉れないかと切望され、附属生活はまだ此れからと云ふのに思い切って奥山の坂を降り南部小学校に転任、昭和十一年十一月から国語教科書に民選教材として初めて採用する事となり拙作、「稲むらの火」は翌十二年十月から小学国語巻十に登載さる。 昭和十六年南部小教頭拝命、青年学校教諭兼賛壮年団理事も委嘱され、十七年八月、県振興主事を拝命日高地方事務所勤務となる。爾来二年半管内三十六町村を昼夜の別無巡訪し、朝は五時起床、夜は夜中の終列車で帰宅。 昭和二十年、汽車通勤不能の為県主事返還、切目小学校長拝命。 八月十五日、終戦御宣言の日は仰南小学校で出征予定者の身体検査あり、私も切目村の青年の検査もある事とて出席したが、集まった人の話しの中で今日昼天皇陛下の重大声明が放送されると聞かされ、在校職員にも聞かせなければと思い、幸いこの時間は汽車不通時だつたので約十分間鉄道を走り続けて、重大報導を待って居る職員と会う事は出来たが、既に終戦の御宣言が終わった後だったので、一同涙にむせび乍ら敗戦の苦を偲ぶ。 同年十月依願退職、時の県教委だった楠山光一先生からも親切に慰留頂きましたが、銃后振興の為の私の指導については、時々県の方から丸秘情報として通報される聯合軍の横暴な軍事行動などを大衆の前で公表して、翌日警察に呼出されて忠告された事もあり、寺の梵鐘や各家庭の仏具まで軍需献金に替える様強要的な指導に傾注し、これで戦勝は問違い無しとまで説き続けた結末の実情を反省し、自分一人の責任で無いとは云え、先生の教えは素直に実行するといふ庶民は今どの様に感じて居るかと想像するに付け、過ぎた自分の言動、済まなかったと謝罪すべきだと思慮して、職を放棄した事は今も後悔する事なく得心致し居る私です。(時に私は三十九歳) C)職業以外の公務 イ、町議々員と町教委 一期 ロ、小中高PTA役員は連続十一年 ハ、町商工会役員 二期四年 ニ、みなべ農協役員(理事) 二十五年 ホ、田辺酒類株式会社取締役、昭和二十七年から現在に到る。(約四十年) ヘ、菩提寺勝專寺の総代 三十年(平成三年まで) ト、退公連日高支部長 二ケ年 E)「稲むらの火」に戴いた協力の御礼 昭和九年執筆、国定教材に採用され、十二年から五年生用として好評を頂き続けましたが昭和二十年終戦直后駐日マッカーサー司令の命により廃刊とせられ、消滅の悲運にさらされたが。 昭和四十年、四十歳を迎えた教え子達が私の還暦祝として憶い出の「稲むらの火」を再版しようと発起されましたが、既に原本は消滅してどこにも見当たらず、約二年近く八方手を廻した挙句、私の生地湯浅町山田の弓場孝一様の母上が仏壇の抽出しに大切に保存されていた一冊を寄贈され、翌年十一月約二百部出版し身近な人達に配布さして頂きました。 昭和五十年、広川町では毎年津浪祭を行事として、梧陵の偉業を感謝続け居りますが、此の頃国の方から新港湾造設の為、湯浅広を一つの那者港と建設の企画が発表されてから、賛否両論対立で世論を巻き起しましたが、五十一年六月NHK「オハヨーパーソナリティ」で中村鋭一氏から電話対談を申出られ、約半時間の対談放送されました事が、史蹟保存への大きな協力となり港湾埋立は中止と結着す。 昭和五十八年日本海中部地震で遠足中の学童十三名が津波に呑まれる、といふ大惨事が勃発し、日本では昭和三回目と云ふ津波の恐ろしさを感じさせられ、各新聞への投書止まず日高郡由良町衣奈出身の五嶋隆春氏は読売新聞「窓」へ投稿され、あの「稲むらの火」を習って居たら、こんな悲劇に見舞はれる事も無いのにと防災教育の必要を力説され、九月の防災週内を迎えては紀州新聞、紀伊民報は一頁に亘る関連記事を登載され、その五日にはNHK取材班数名来訪され、前記教え子達も駆せ参じて録画に協力、六日和歌山放送、七日近畿放送いづれも六三〇放送で視聴者に深い感銘を与えられました。 昭和五十八年八月、東大教授平川博士は名古屋において全国先生方を対象に「よき国語教科書の思い出」と云ふ表題で長時間講演され、その全容は間もなく月刊「日本教育」誌に登載され全国に流されましたが、その中で先生はよき教科書とは、暗唱するに足る名文が良いのか、解り易い文章を載せた方がよいのか? を課題としては暗唱するに足る名文がいいと思う一人です、と力説された事は読者に深い感銘を与えて下さいました。 昭和五十九年、こうした中で私共退公違で毎月発行して居る退公連新聞では、県会長を永く勤められてゐる貴志元夫会長が全国新聞と県会報に「稲むら火」を学ぼうと呼びかけられた事が大反響をもたらし、全国各地から小冊子を希望され、約一年間はこうした方々との対応に暮れる喜びを与えられました。 昭稿六十年三月一日には小泉八雲の玄孫凡氏も東京から来訪され、一泊して南方熊楠記念会訪問と広川町の迫跡を巡って帰られました。 昭和六十一年三月一日には文部省統計推理研究所の水野欽司教授も愈々来訪下さって色々対談の上一泊戴だき、翌目広村を巡ぐられて清水勲校長や町教委の案内と説明を聞かれて帰京。 昭和六十二年九月二日、以上の様な流れの中で今日を迎え、九月二日午前中には総合庁舎で国土庁長官から防災教育功労者としての表彰を戴だき、夜は六時からパレスホテル梅の間で盛大な祝賀会を開催していただきました。 国土大臣綿貫様から金時計を壱個、浜口家の当主浜口道雄様から鎖付金時計を壱個戴きましたので、私八十五年の間に、耐久中学の卒業記念に旧藩主徳川頼倫候から銀時計壱個、.同十五年三月県師範学校卒業の祝として、同じく頼貞候からも銀時計壱個を戴きましたので四個の時計を拝領致し居ります。 昭和六十三年五月十八日、天皇陛下のお招きの栄を賜わり、赤坂御苑での園遊会に出席、陛下の祝辞も目の前で拝聴し、広い苑内を巡って、まるで子供時代の遠足の様な御馳走まで賜って夜帰郷。 昭和十二年以来、延々五拾五年の歳月を閲しましたが「稲むらの火」について此の齢、此の記録ではまだ一件落着の結びは記せない日をかさねてゐる幸運の自分でありますが、本章(E)で紹介した他、記名しない数々の方々記名、記録を落として居りますが、報道機関の方、著名関係の方については転居後住所の判り難い事も多く、改めてお詫び申上げますと共に下記御二名との交友を附記さして戴きます。 1)五嶋隆春様 前記にも読売新聞「窓」に投稿された事は記入していますが、「稲むらの火」改刊のたびに、緒言を書いてくださるばかりか、度々訪問くださっては、ビデオカメラを持って巡遊され、故郷の日高郡由良町衣余海岸にも見えられるし、奥様は大阪赤十字病院の看護婦さんなので、住吉区の自宅を離れる事は、ほとんどありませんが、御主人のビデオ制作を支えて日々を送られ、隆春氏は昨年も東京朝日新聞社主催のビデオコンテスト全国大会で優秀な成績を占められた事も覚えています。 2)耐久中学前校長 清水勲先生 私の故郷に接する有田郡糸川といふ山村に生まれた方ですが、私の母校々長として永年勤務され、定年退職后は広川町教委員となられましたが、教職一本で耐久の歴史と進展に傾注され平成二年(一九九〇)三月二十九日、稲むらの火顕彰板建設除幕式に出席、十時頃から私も「耐久中学を偲ぶ」の題名で全生徒に講話し、約二百人の生徒から思はぬ好感を受け、講演后は校長室前の廊下に一杯の生徒達から署名してほしいと頼まれたのには吃驚、生れて始めての栄光の一幕であったと今も記憶して居ます。 マラソン、ラストコースも終った此処らで一服といふ気持ちの中でも何かしなければと云ふ気持は絶対に消えず、乞はれるままに思ひ付くままに集中した二、三の記録を並べて回顧の土産としたいと思ったのが、失張り歴史の小さいまとめに成った事を観て頂きます。 平成四年八月 旧盆前 中井常蔵 擱筆。
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